一般社団法人福岡県私設病院協会様が2か月に1回発行している会報誌「福私病ニュース」において、弊所の弁護士が労務問題に関する連載を行っております。
連載中の記事を全文掲載いたします。
事例
5月のある朝、たくみ病院の事務長Tは職員用通用口をくぐって慌ただしい雰囲気の院内を通り抜けた。
この2、3か月、Tは新型コロナウイルスワクチンの先行接種にかかる事務に忙殺されていた。ワクチン接種は急ピッチで進められており、医師、看護師はほぼ全員が1回目の接種を終えていた。
一方で、院内ではワクチン接種を巡る問題も生じていた。それは中堅看護師Nのことである。
Nは以前からワクチン接種を受けるつもりはないと公言しており、その言葉どおり、ワクチン接種を拒否し続けていた。Tは数回にわたりNに対してワクチン接種を受けるよう指導を行ったが、Nは頑として受け入れないばかりか、ワクチン接種を拒む理由すら明らかにしなかった。
病院の方針をないがしろにするNの態度に、院内からは批判的な意見が上がっていた。中にはNに患者対応をさせるべきではないという声もあった。
「どうしたものか…。」
Tが事務長室のドアノブに手をかけたとき、誰かがTの名前を呼んだ。総務部長のMであった。
M:「おはようございます!今日もすっきりしない顔をしていますねえ。さてはNの件ですね?」
T:「君、あまり大きい声で話さないでくれ。」
M:「事務長は考えが甘すぎるんですよ。皆が協力しているワクチン接種を拒み、その理由さえ明らかにしないNの態度は、医療従事者としての自覚に欠けるものがあると思います。」
T:「だからといって、ワクチン接種を強制することはできないだろう。」
M:「以前だったらそうだったかもしれません。しかし、今はそんな悠長なことは言っていられません。万が一Nからクラスター感染が発生すれば、多くの患者の生命を危険にさらすことになります。新型コロナの克服という使命を背負う医療機関として、そのようなことが許されるでしょうか。」
T:「それはそうかもしれないが…。」
M:「もしNが今後もワクチン接種を拒否するなら、患者と接する機会がない部署への異動や、懲戒処分も検討すべきです。また、今後は採用の際にワクチンを接種したことを証明できる書類を求めることも考えなければいけません。」
T:「しかし…。それって大丈夫なの?」
解説
はじめに
いよいよ医療従事者に対する新型コロナウイルスワクチンの接種が始まりました。
ワクチンは新型コロナの終息に向けた大きな希望です。
他方で、ワクチン接種は新たな法律問題を生む可能性があります。
海外では国外への移動や店舗への入店の際にワクチンの接種証明書を求める動きが出てきているようです。
今後日本で公的な証明書が活用されるかどうかは不透明ですが、このような動きが広まれば、有効な感染拡大防止措置になる一方でワクチン接種を受けていない(受けられない)人に対する差別が生じるおそれもあります。
労務問題の観点からは、ワクチン接種を拒否する従業員に対する対応、ワクチン接種の副反応により何らかの後遺症が残ったときの責任、採用時にワクチン接種の証明を求めることの是非などの問題が考えられます。
今回はその中から、「新型コロナウイルスワクチンの接種を強制できるか」という問題について解説いたします。
ワクチン接種の強制はできるか
ワクチン接種の強制の可否はけして目新しい論点ではなく、過去にインフルエンザの予防接種等でも問題となってきたトピックです。
通常の職場と比べて病原菌への抵抗力が弱まっている患者に接触する機会が多い医療従事者にとって、ワクチン接種は、単に感染リスクを下げるというだけでなく医療提供体制を確保するためにも必要です。
また、医療従事者が感染源となってクラスター感染が発生すれば病院が責任を追及されるおそれもありますので、早急に職員のワクチン接種を進めたいと考えるのは当然のことです。
しかし、結論からいえば、ワクチン接種を強制することは難しいと考えられます。
副反応などのリスクがある以上は、対象者がそれらのリスクに関して説明を受け、十分に理解した上で、自らの意思で希望してワクチン接種を受けるべきです。
使用者(病院)はあくまでワクチン接種を推奨することができるに留まり、ワクチン接種を拒否した職員の出勤を拒む、制裁的な異動を命じるといった不利益な取り扱いをしたり、懲戒処分を科したりすることはできません。
これは対象者が医師や看護師といった医療従事者である場合も同じです。
厚生労働省の「医療従事者等への接種について」というページにも、「医療従事者等の方は、個人のリスク軽減に加え、医療提供体制の確保の観点から接種が望まれますが、最終的には接種は個人の判断です。接種を行うことは、強制ではなく、業務に従事する条件にもなりません。」と記載されています。
ワクチン接種を拒否する従業員がいる場合、感染防止対策を徹底した上で業務に従事させ、健康状態を頻繁に確認して感染の疑いがある場合はすみやかに就労を制限する、あるいは本人の同意を得た上で患者との接触が少ない部署に異動させるなどの措置を検討するのが現実的です。
ワクチン接種による健康被害の責任
次に、ワクチン接種により健康被害が生じたときの責任について解説します。
当コラムの執筆時点では新型コロナウイルスワクチンの接種による重篤な副反応の事例は報告されていません。
しかし、もしワクチン接種の副反応により後遺症が残ったり死亡に至る可能性はゼロではありません。
そのような場合、病院に何らかの責任が生じるのでしょうか。
ワクチン接種が本人の自由意志で行われた以上、病院がワクチン接種を推奨したからといって病院に責任が生じることはありません。
この意味でもワクチン接種を強制しないことが重要です。
万が一のときの損害賠償リスクを回避するために同意書を取ることも考えられます。
まずワクチン接種により健康被害が生じた場合には労災認定の対象となるのでしょうか。
ワクチン接種が業務として行われたものでなければ、ワクチン接種により健康被害が生じたとしても労災保険給付の対象とはならないのが原則です。
しかし、医療機関の場合はワクチン接種が業務命令に近い形で行われることがあり得ることから、新型インフルエンザが流行した平成21年の通達では次の取り扱いがなされました。
「医師、看護師等医療従事者については、今般の優先接種の取扱いに伴い、必要な医療体制を維持する観点から、業務命令等に基づいて予防接種を受けざるを得ない状況にあると考えられることから、予防接種による健康被害が生じた場合(予防接種と健康被害との間に医学的な因果関係が認められる場合に限る。)については、当該予防接種が明らかに私的な理由によるものと認められる場合を除き・・・業務上疾病又はこれに起因する死亡等として取り扱う。」(平成21年12月16日・基労補発1216第1号)
今回のワクチン接種においても同様の判断がされる可能性はありますが、労災認定がされたからといってそれにより使用者の責任が認められるわけではありません。
使用者には労働者が労災請求手続に協力する義務がありますので、職員から労災申請の申し出があったときには、事実関係に疑義がない限り、必要な証明等を行わなければいけません。。
今後生じうる問題
今後ワクチン接種が広まれば、採用面接の際に過去のワクチン接種の有無について確認したり、ワクチン接種を受けていない人は採用しないという方針をとることが可能か、という問題も生じる可能性があります。
ワクチン接種を受けていない患者の受診を拒否したらどうなるか、という問題もあります。これらの論点については別の機会にご説明したいと思います。
新型コロナウイルスを巡る情勢は刻一刻と変化しています。当コラムは執筆時点での最新の情報を元に制作していますが、最新の情報は顧問弁護士などに相談することをお勧めいたします。